2019年6月10日(月)、防衛省は4月9日夜に墜落した航空自衛隊三沢基地のF-35A戦闘機について、パイロットの平衡感覚喪失にともなう人的要因の疑いが強いと発表しました。
平衡感覚喪失、言葉通り「自らの平衡がわからなくなる状態」ですが、このような状況に陥ることを「バーティゴに入る」と言います。
バーティゴ(空間識失調)はパイロットであれば誰でも経験しますし、発生しない航空機というものはありません。
今回のF-35の事故原因としては推定要因ではありますが、バーティゴ発生の理論とその回復や対処について、少し書いてみたいと思います。
身体の平衡感覚を保つシステム
視覚
皆さんが日頃生活している中で、「水平」を保つことに意識をしたことがあるでしょうか。
ほとんどの方が意識することなく、身体の水平を保つことが出来ているかと思います。
坂道や斜面等を歩く際に、自然に身体の水平を保つように身体を使っているはずです。
これができるのは、主に「視覚」が大きな影響を持っています。
つまり、今までの経験から外景対象物の水平を記憶して、自分自身の目を使って対象物を参考に水平を保っていると言えます。
運動関知器官
三半規管
三半規管は平衡感覚(回転加速度)を司る器官で、内耳の前庭につながっています。
半円形をしたチューブ状の3つの半規管の総称で、それぞれ「前半規管」「後半規管」「外半規管」と呼ばれており、互いに90度の角度で傾いています。
各半規管の内部にはリンパ液が満たされており、付け根には有毛細胞(感覚細胞)があります。
頭を動かすと、一緒に各半規管も同じように動きますが、内部にあるリンパ液は慣性の法則によって動きません。
結果、リンパ液が有毛細胞を動かし、その動きが回転加速度として認識されます。
ただし、欠点があります。
長時間同じ方向に動かし続けると、やがてリンパ液も一緒に動くようになり、有毛細胞を動かすことが出来なくなり、回転加速度を感知できなくなります。
ぐるぐると長時間回った後、静止しても回っているような感覚が生じるのはこのためです。
耳石
内耳にある加速度を測る器官です。
有毛細胞の上に耳石(小さな石)が乗っかっている形状になっており、全ての方向の動きを感知します。
身体が動くと、慣性の法則によって耳石はその場に留まろうとして、有毛細胞を動かします。
この耳石にも欠点があり、非常にゆっくりとした動きを行った場合、耳石も一緒に動くため感知できません。
深部感覚と皮膚感覚
身体が動くと、その周りにある物体は身体の動きと反対に動きます。
つまり、身体に接触しているものの動きが皮膚への触感として感知することになります。
車で急発進すると、シートに身体が押しつけられる感覚等がこれにあたります。
人の感覚は簡単に欺される
みなさんは、東京ディズニーランドにあるスター・ツアーズという乗りものに乗ったことはあるでしょうか。
- 真下に急降下するシーンがありますが、あれば本当に急降下しているのでしょうか。
- 前方に発進するシーンがありますが、本当に前方に動いているのでしょうか。
答えはいずれもNOです。
実際は、「その場に留まっており、真下も向いていません。」
人間の平衡感覚を司る最大のセンサーは視覚です。
つまり、「真下に落ちるような映像」を流しつつ、内耳の感覚器官が感知できる「前傾姿勢」を少しだけ作り出すことによって、真下に急降下していると錯覚させます。
実際は、真下とはほど遠い、30度程度の傾斜を前後左右に発生させていると推測しています。(上下動もあるかと思います。)
この乗りものと同じような状況が航空機内部でも発生することにより、パイロットの感覚と実際の機体の姿勢が異なる状況を作り出してしまう。
つまり、人の感覚で関知した姿勢と実際の姿勢が異なる状態、これがバーティゴです。
バーティゴの種類
非常に多くのタイプがありますが、今回は傾斜感覚に影響を与えるバーティゴを紹介します。
コリオリ効果錯覚
- 内耳期間の動きが止まってしまうほどの長い時間の定常旋回を行って、頭を動かすと実際の旋回と異なる軸や方向で旋回しているように感じる。
人体加速錯覚
- 急激な加速は機首上げを行っているように感じる。
- 逆に減速では機種下げを行っているように感じる。
転回性錯覚
- 上昇から水平直線飛行に急激に移行すると、パイロットは後方に倒れたような錯覚を生じる。
上下錯覚
- 上昇気流や下降気流によって、急激な上向き加速や下向き加速を感じると、機体が上昇や降下をしているように感じる。
疑似水平線
- 傾いた雲や不明瞭な水平線、地上の灯火と星の光が混在している暗闇、地上灯火の幾何学的な配列によって、水平線を誤認する。
自動運動
- 暗闇の中で静止している灯火を数十秒見つめていると、その灯火が動き回るような錯覚を生じる。
バーティゴの怖さ
パイロットは必ずバーティゴに関する教育を受けており、前述のような知識は持っています。
それにもかかわらず、バーティゴによる航空事故が無くならないのはなぜでしょうか。
それは、「自分の感覚と計器指示が異なる事への疑心暗鬼」の1点につきます。
色々な要因によって、パイロットがバーティゴに入ることは普通です。
人間の平衡感覚を関知する器官の構造上、これを回避することは出来ません。
例えば、一面にべったりと覆われている雲の上を飛行していると仮定します。
パイロットは、平衡感覚の大部分を司る視覚を使い、雲と翼が平行になるように操縦を行って、水平飛行をしています。
でも実は、雲は地平線にたいして平行ではなく、傾いていたとしたらどうでしょうか。
コクピット内の計器のひとつ、航空機の姿勢を示す姿勢指示器(AI:Attitude Indicator)は水平を示さず、機体が傾いていることを表示するでしょう。
これを見たパイロットはどうするでしょうか。
- パイロットは(自分の感覚で)水平飛行していると思っている。
- 飛行計器は機体が傾いていることを示している。
この矛盾がパイロットに迷いを生じさせます。
自分の感覚がおかしいのか。計器が故障しているのか。
この時、パイロットの正しい判断操作は、「自己の感覚を捨てて計器を信じる。」ことです。
しかし、これが非常に苦しい。
自分自身の感覚を捨てることの難しさ、そして、「本当に計器は正常なのか。」という疑心暗鬼に長時間晒されるのです。
夜間の場合はより厳しい条件になります。
月の出ていない暗闇であれば、海面の船舶の灯火と星の光の区別が付かないかもしれません。
水平線を視認することはできませんし、雲があっても見ることはできないでしょう。
音速に近い急降下の認識
今回のF-35の事故では、急角度の降下と高速飛行がレーダー航跡から解析されています。
パイロットは、高速度での飛行が認識できなかったのかと考える人は多いと思います。
これは、自分自身の経験で言うと、速度を知る方法は速度計を見る以外にありません。
音や体感、振動といった要素もありますが、恐らく最新のF-35では全飛行領域で安定した飛行ができるはずです。
つまり、低速から高速まで特別な操作をすることなく、安定した飛行が出来るため、「操縦者が感覚で速度を知ることが難しい。」と考えています。
また、急降下についても、夜間で水平線が視認出来ない場合は、姿勢指示器を確認しない限り極めて困難です。
「落下」と「急降下」では体感が異なるという点も、気がつきにくい要因であると考えています。
落下であれば、身体が下方向に動くため、「浮くような感覚」を感じることが出来ます。(エレベータで降りる際に感じる感覚と同様)
しかし、航空機の場合は機首を下げて降下しますので、身体には進行方向の動きとしてしか感じることが出来ません。
急激な機首下げ姿勢であれば、なおさら「落下する感覚」は生じないでしょう。
バーティゴは自己認識をして初めて対処できる
バーティゴに陥った場合は、速やかに計器飛行に移行しなければなりません。
もちろん、自分自身の感覚と異なる計器指示を全面的に信頼して操縦する。という心理的な負担は生じます。
しかし、計器飛行に移行することができれば、安全は保たれるはずです。
ところが、これには決定的な抜けがあります。
【バーティゴに入っていることを自分自身が認識する】
ことができないと、回復操作(計器飛行)に移行することはできません。
しかも、バーティゴに入っているかどうかは自分だけでは分からず、必ず計器を見て判断する必要があります。
対戦闘機戦闘を行っていたのであれば、常に相手を視認し続ける必要がありますから、計器飛行ではなく、コンポジットフライト(外景を基準にした飛行)のはずです。
私が気になる点は、「パイロットはバーティゴという認識を持ったのか。」の一点につきます。
おわりに
F-35を任されるパイロットは選りすぐりの方です。
しかし、どんなに優秀なパイロットであっても、バーティゴには陥りますし、それを認識しなければ対処することは不可能です。
バーティゴ・シミュレーター等による訓練は定期的に行われていますが、それはバーティゴを体験するに過ぎません。
「パイロットがバーティゴと認識」するかどうかが、最初の関門となるのです。
殉職されたパイロットに敬意と哀悼の意を
参考資料
航空医学図書、AIM-Japan
いつもツイッターで御世話に成って居ります。
今回、初めて質問致します。
F35Aに於ける墜落事故原因がバーティゴとの事ですが、視認飛行がほぼ不可能な状態で夜間訓練(ACM)を行うのですか?
それと真っ暗と雲の中を飛行していると計器飛行しない限り確実にバーティゴに陥るのでしょうか?
あの故ロック岩崎氏でもバーティゴは有ったと聞きました。その時は地上と空が逆転していた感覚だったとの事です。
結果として激しい飛行操縦の後に疲れや三半規管の異常が生じてバーティゴは起きやすく成っているのでしょうか?
素人質問で申し訳ございませんが御教示よろしく御願い申し上げます。
ご質問ありがとうございます。
夜間のACMというのは、通常一般に言われるような高機動を伴う空中戦・・という訳ではなく
直進またはそれに近い仮想敵機に対する要撃訓練かと思われます。
このため、視認できなくてもレーダーや計器飛行によって要撃が可能になります。
夜間本当に真っ暗であれば、計器飛行に移行しなければバーティゴに入ります。
というか、外景が見えない状況、認識できない状況ではVFRとして飛行することは不可能になります。
バーティゴに入る要因というのは色々ありますが、
やはり一番大きいのは、「水平線(基準線)」が視認できない状況です。
付随する事項として、高機動(常にGが下方にかかる)やHUD、HMDへの極端な集中等があります。
もちろん、睡眠不足や疲労といった身体的要素も絡んできます。