日本人は何処に向かっているのか

ネットに流れるニュースを見ていてなんとも言えない危機感を感じましたので、ちょっと書いてみます。

記事は「浅草神社の御朱印」について書かれていた物で、原文を見るために浅草神社のフェイスブックをのぞいて見ると、「個人の価値観による利便性を求められる風潮」と言う言葉を使って、浅草神社の思いが書いてありました。

航空よもやま話としては、「航空」に直接関係することでは無いけど、以前から思っていた事なので少し書いてみたいと思います。


浅草神社の思い

記事は、5月10日にフェイスブックに書かれたもので、長い文章の中に参拝者への配慮と御朱印を1人でも多くの人に頒布したい。という思いを感じます。

記事は以下に埋め込みしておりますのでご覧ください。

平成から令和への移り変わりの中、多くの人が御朱印を求めて参拝したのでしょう。

ただ、その中のほんの一部の方が「 個人の価値観による利便性を求める 」行動をとることによって、
三社祭期間中 の特別御朱印の頒布を取りやめる事になっています。

これは一見、「一部の心ない人の言動によって、本来行われるはずであった行事を取りやめた。」という文章に見えます。

しかし、空飛ぶたぬきとしては「日本人の骨幹に関わること」ではないかと感じています。


一部の心ない人の言動とは

本文中には具体的に以下のように書かれています。(以下、箇条書きにて引用)

  • 暴言・恫喝また暴力に近い行為に及ばれる方
  • 1人の職員を取り囲み罵声を浴びせられる方々
  • 説明をしている最中に大声を出し遮られる方
  • 遠方よりお越し頂いている事を理由に特殊な対応を求められる方
  • 整理券をひったくるように受け取られる方
  • 神社をサービス業と捉えられ、受付時間の変更を提案される方
  • 「こっちはお客さんだぞ」と仰る方
  • 神社が税金で維持管理されていると思っている方、
  • 神社に対し、全ての方に合わせた対応・改善を現場やSNS等で求められる方

個々に書かれている内容は、今回の御朱印頒布に限らず、日常生活でも少なからず目にする光景ではないでしょうか。

確かに、「せっかく遠くから時間を作って来たのに、目的を達成出来なかったら・・」という気持ちは十分に理解出来ますし、人は常にその考えで行動しているので考えそのものを否定することはできません。

ただ、空飛ぶたぬきが気になったのは、昨今ニュースやSNSで報じられる事象のほとんどが、同じことではないかと言う点です。

暴言や恫喝、罵声、大声

「大声を上げた方が強い。」と思っている人は少なからずいます。

相手を恫喝するように、大声で、周りに聞こえるように、そして自分を強く大きく見せるように行動することは、気の弱い相手であったり、相手が公共機関や公人であれば通用するのかもしれません。

そして、恐らくそういった方は常日頃から「自己の意図を具現化するために」そういった手法をとり続け、実際に上手くいく人生を歩んできたのでしょう。

ただ、言葉で相手が理解して、その結果として自己の意図が具現化するのであれば、普通に話して(普通の声で話して)も通じるはずなのです。

つまりは理論的で納得のいく話であれば、大声を上げる必要はない。

大声を上げる時点で、「自分の論点の一部でもおかしい点がある。」ことを認めていると感じてしまいます。

特別な理由

「遠方から来た。」確かに十分に特別な理由でしょう。

ただ、今回の事象では遠方という概念がどれくらいかと言う点は別にしても、「御朱印のために時間をかけて訪れている。」という点は同じです。

近くの人はいつでも来れるだろう、でも私は遠方だから先にしろ。という理論ですが、令和への元号変更に伴う御朱印はその時だけです。つまり2度目はあり得ない1回限りのイベントです。

そこに、距離は関係なくそのチャンスを得るために時間をかけて参拝している点は全員が同じなのです。

毎日行われているイベントであれば、近隣の方よりは優先されるのかもしれませんが・・・

ひったくるように・・・

もうこれは、色々言うよりも単なる礼節の話ですね。

整理券方式が気に食わないのか、番号(があるかわかりませんが)が遅くて気に食わないのか。

サービス業

全ての仕事はサービス業だと空飛ぶたぬきは考えています。

対面接客する業種だけがサービス業だと思われがちですが、製造でも事務でも何でも最終的に行き着くところはお客様です。

つまりは、お客様(この場合は参拝者)に対して、対価に応じたサービスを行うこと、お客様は対価に応じたサービスを要求することは間違いではありません。

寺社仏閣であっても同じかもしれませんが、参拝というのは自らの拠り所として訪れることであり、そこには「敬う」という気持ちが存在すべきと考えています。

信じる信じないは別にしても、神さまの元へ訪れ、その記録として御朱印を「いただく」のです。

対価を得て提供をうけるサービスとは趣が異なるのではないでしょうか。

こっちはお客さん

SNS等でもよく目にしますが、「お客様は神様です。」のくだり。

これは客が言うことではありません。

似たような言葉で、「子供がしたことですから。」というのがあります。

これも、子供がしたことによって「被害や損失を受けた側」が相手を気遣って言う言葉であり、 その子供の親が言うことではありません。

昔から使われてきた、日本人の礼節に根付いた言葉が謝って広がっていることを感じます。

神社は税金で維持?

もうこれは「お粗末」でいいしょう。

正しい知識を持たない。持とうとしない。調べようとは思わない。という昨今の風潮でしょうか。

SNSで対応を求める

現代社会らしい内容です。

SNSでは、「自分の意見に賛同する同類」をフォローしている人が大半ではないかと思っています。

かく言う空飛ぶたぬきもそうです。

そこで意見を言うと、ほとんどの人が賛同してくれる。さらには内容を助長する意見も出てくるでしょう。瞬時にさらには大量に。


危機感を感じるのは

今回の御朱印の件だけでなく、昨今のニュースやSNSを騒がせる事案等も同じではないかと感じています。

ニュースまでにはならなくても、我々が生活していると必ず「自己の意にそぐわない事象」というのは必ず発生します。

問題はそこでどういった行動をとるかです。

具現化するために、自分の意見を通すために、恫喝したり大声を上げたり、特別感をだしたり、不徳な態度をとったりしていないでしょうか。

結果として自分の思い通りにならなかったからといって、SNS等で賛同者を募っていないでしょうか。

私も偉そうなことを書いていますが、同じなのかもしれません。

私自身も気をつけていますが、そんな行動をとっているのかもしれません。

日本人が持つ、「礼」はこれから何処に向かっていくのでしょうか・・・。

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